嵐、暗闇、二人










 あのデパートの一件の後、案の定プーチンたちはウラジオストクの民警たちが血眼になって探す手配犯となってしまった。
 まあ、ほぼ全てキレネンコの仕業とは言えひとつのマフィアをほぼ壊滅に陥れたわけで、それにそもそも彼らは脱獄犯なのだから、追うなという方が無理な話なのだが。
 怪物的に強いが一般常識に欠け、なおかつ隠れ逃げるということを知らないキレネンコを抱え路頭に迷っていた一行を救ったのは、なんとマフィアたちだった。路地裏で息を潜めていたそのとき、突然声を掛けてきた刺青だらけの強面に心底怯えたプーチンであったが、蓋を開けてみれば、彼らはキレネンコの元部下たちなのだという。
 よくよく考えてみると、図らずとも今まで語られなかったキレネンコの過去を一つ知ってしまったわけで、それも結構な衝撃だったはずなのだが、それ以上に混乱していたプーチンはあっさりと彼らの庇護に応じ、今はキレネンコとコマネチ、レニングラードらと共に、ウラジオストクのスラムに身を潜めている。

***

「失礼します。これ、一応緊急用の物資です、使ってください」
 ただでさえ薄暗い路地裏だが、今日は空を厚い雲が覆っているため、一段と暗い。まだ夕刻、日は沈み切っていない時間なのだが。
 レインコートを目深に被った男が差し出した麻袋を、受け取っていいものかと一瞬迷ったプーチンだったが、有難く受け取ることにした。コートの腕の隙間から覗く無数に彫られた文字やら絵柄やらにやや怯えながらではあったが。深々と礼をし、ありがとうございますと何度も繰り返す。
 ラジオが言うには、今日の夜にはウラジオストクに台風がやって来るのだそうだ。今も、湿った強い風が細かい雨を霧のように散らしている。
 プーチンは、嵐を経験したことがなかった。10代の頃から職と住む場所を転々としてきたプーチンだったが、実家近くの山村部をぐるぐると回るように移動していただけだったので、雪は馬鹿みたいに降ったが雨は少なかった。
 嵐は未だ前座の段階に過ぎず、細かい雨が降り、風が吹きすさんでいる程度に過ぎない。しかし、それでもプーチンは何か底知れぬ恐怖を感じるのだ。それが未知のものに対する恐怖なのか、それともなにか予言めいた本能的な恐怖なのかは知れないが、自然の驚異というか、そういう逃れがたいものに対して感じる恐怖というものは深くて広い。
 応じてくれるだろうかと思いながら、キレネンコの元部下"らしい"男に茶を勧めると、少々意外なことに、男は短く礼を言いながら扉を潜った。
「ニコライさんは……嵐を経験したこと、あるんですよね」
 男のコートを掛けながら、大した意味もなく、プーチンは間を埋めるための質問をした。ええ、と、やはり短く男が返す。
 男の名は、ニコライ。それ以上のことを、プーチンは知らない。ただ、他の者たちに指示を出したり、キレネンコと2人で何事か話していたりしたのを見る限り、どうやら高い地位にあるようだ。
「私は、ここの出身ですから」
 ケトルを火に掛けているプーチンの横で、ニコライがぼそりと言った。これがどうやらこの男の素の喋り方のようなのだが、なんとなく底知れない迫力があってプーチンはこの声を聞く度に少しドキリとする。
 断片程度の知識だが、キレネンコの出身は、ここウラジオストクで旧くからマフィアとして裏社会を仕切っていた一家らしい。そう言われると妙に納得してしまうのは、やはりキレネンコに染み付いたそういった香りを、無意識のうちにプーチンが嗅ぎ取っていたからなのだろうか。
「確か、キレネンコさんも……」
「ええ」
 ニコライは椅子に腰掛けていたが、どうにも向かい合うことを躊躇ってしまって、プーチンは特に用事も無いのに簡易キッチンから離れられない。ガチャガチャと、落ち着かなくティーセットを弄繰り回している。
「……ボスが生まれたのも、嵐の日でした」
 それでも、どうしてかその名前には反応してしまう。プーチンは手を止めた。
「こんな風に、雨がたくさん降って」
「ええ。とても、風の強い日でした」
 奥の部屋で居眠りをしているはずの男を気にしながら、プーチンは続きを聞きたいと思っている。ニコライの服の袖から覗く刺青は、紛れもなく彼がマフィアであり、またキレネンコもそうであったことの証だ。
 正気ならば、深入りすべきところではないと思うはずだ。しかし、プーチンはニコライの口を遮ることができない。テーブルの向かいに座って、天気の話を振れば簡単に話題は摩り替わるはずなのに、プーチンはそれができないでいる。
「私はそのとき15歳でした。家が無かった私は13の頃からボスのご実家にお世話になっていたのですが、その日私は、産婆を呼びに行く役目を受けていました。風と雨が強く、吹き飛ばされそうになりながら、通りを2つ越えたところに住む産婆を呼びに行ったのは、真夜中のことでした」
 粗末なドア板が、風でガタガタと鳴っている。
「……扉と窓に、板を打ち付けた方がいいかもしれません」
 そう言って腰を上げたニコライを、プーチンは思わず制止していた。
「いえ……その、いいんです。僕、大工仕事は得意なので、自分でやります。だから、」
 だから。
 その続きをプーチンは口に出すことができなかったが、言わずとも伝わるようなことである。
 踏み込んでしまった。明らかに、自分の意思で。ドキドキと、嫌な具合にプーチンの心臓は高鳴る。
「……お産は長く続き、夜の間中、風の音に被さるように、母君の悲鳴が聞こえていました。産声が聞こえたのは、明け方――ちょうど、嵐が止んだころ」
 風が、心なしか強くなっている。屋根を叩く雨の音も、強くなっているような気がする。
「そのころには雨も止み、朝日が昇るころには、キラキラと雫に反射した光が輝いていました。その中で赤ん坊の泣き声が響き、目を覚ました私が部屋を出ると、ボスの父君――当時のボスが、ソファに腰掛け涙を流していました。そして、私に『神父を呼んできてくれ』と。……母君が、お亡くなりになった、と」
 ……どうしてだろうか。
 ニコライの語る口調は淡々としている。それでも、プーチンは思わず目を閉じる。目を閉じて、薄ぼんやりとした、物悲しい何かを思い浮かべる。
 ゴウ、と風が鳴ったその時、同時にケトルもピイピイと音を鳴らした。
「……折角準備をしていただいたのですが、すみません。風が強くなってきたようです。もう、戻らなくては」
 ニコライが席を立ったとき、思わずプーチンは声を掛けそうになった。待って、と。しかし、ギリギリの理性がそれを押し留める。呼び止めて、どうしようというのだ。何を聞こうとして、何を知ろうとしているのだ。
 知ったところで、どうするつもりなのだ。
「あの、気をつけて、くださいね」
 仕方なく口から出てきたのは、そんな月並みな言葉だった。ニコライはやはり短い返事だけを返して、自らレインコートを取ると、扉に手を掛ける。
「……ボスは、嵐が嫌いでした。子供のころの、話ですが」
 そのまま、プーチンが何か言う間も無く、ニコライは去って行ってしまった。彼の首の後ろからはいつも、背中に彫られたマリア様の頭が覗いている。

 やはり、雨と風は先ほどよりずっと強くなっている。

***

「ごちそうさまでした」
 外はもう完全に嵐で、ニコライの忠告どおりプーチンは扉と窓に板をめいっぱい打ち付けた。しかしいつもと変わらない時間には食事の支度をし、いつもと変わらない時間に食事をはじめ、いつもと変わらない時間に、こうして食事を終えている。
 こんなもんなんだろうか、とプーチンはぼんやり思った。
 壁一枚隔てた外で荒れ狂う風が恐ろしいが、それはやはり壁一枚を隔てていて、どうしてもどこか非現実じみるのだ。家の中は暖かで、自分で作っておいてなんだが美味い料理があって、ベッドに入ればそれなりに上等なマットレスと毛布に包まれて、未知のこの嵐を気にしながらもいつの間にかプーチンは眠りに落ちているのだと思う。そんな、呆気ないような、妙な話だが物足りないような、非現実感だ。
「コマネチ、レニングラード、今日はもう手伝わなくていいから、風の音が強くなる前に寝たほうがいいよ」
 何かをしていようと思った。
 無意識のうちに、そうやって何事もなかったように眠ってしまうことに、なんとなく罪悪感を覚えていたのかもしれない。
 小動物2匹はおとなしくプーチンの言うことに従い、連れ立って奥の部屋へと引っ込んでいった。
 キレネンコは、いつもと同じ、ソファに寝そべりながら雑誌を眺めている。
 キレネンコさんも、もう寝たらどうですか――その一言が言えないのは、やはりニコライから聞いた話を意識してしまっているせいなのだろう。聞かなければ良かった、と、ほんの少しプーチンは後悔した。そして、どうして話したんですか、とほんの少しだけニコライのことを恨めしく思った。
 ただ、そう思いながらも、ニコライが話した理由をなんとなく察している。言葉には未だ成らない、そういった思いを抱いているのはニコライもプーチンも同じで、その思いの種類は同じではないのかもしれないけれど、きっとそれが理由なのだろうと。
 そんなことを思いながら、プーチンはお茶を淹れた。ニコライに出さなかった分、などと帳尻合わせのようなことを考えながら。
「キレネンコさん、お茶いかがですか」
 聞いたのが既にお茶を淹れた後だったのだが、断られることはないだろうという目算あってのことだった。どちらかと言えば、キレネンコは紅茶が好きなようで、茶を淹れて断られたことは余り無い。角砂糖を2つ添えてティーカップを差し出せば、視線は相変わらず雑誌に向けられたままであったが、やはり片手が伸びてきた。
 お茶を飲み辛いのかそれともプーチンに気を遣ったのか、恐らく前者だが、キレネンコは寝そべっていた姿勢から起き上がり、ソファにはプーチン一人分の隙間が空いた。脱獄、逃走、マフィア壊滅まで一緒に為せばさすがに慣れてくるというか、プーチンも特に何も考えずその隙間に腰を下ろした。
 何を話すわけでもない。
 プーチンが一方的に話すことも3割ほどあるが、基本2人が過ごす時間の多くは沈黙から成っている。あとはほぼゼロに近い割合で、キレネンコが、あー、とか、うん、とか言う程度だ。
 風の音がピュウピュウと鳴っている。
 山出身のプーチンにしてみればウラジオストクの気温はかなり暖かいのだが、それでもこう風が強いとなんだか寒いような気がしてくるのが不思議だ。
「今日は、ニコライさんが緊急用って、いろいろ持ってきてくれたんですよ。ロウソクとか、乾パンとか」
「……」
 例の如く返ってくるのは無言で、嵐の音だけが2人の間に響き続けている。それが、ほんの10センチの2人の隙間を強調しているかのようにプーチンには思えた。
(空気が、冷たい……)
 それがもどかしく、しかし、何をしていいかなどわからない。手を伸ばすことも、出来はしない。

 ふいに、塞がれた窓の隙間から光が漏れた。刹那、ゴロゴロと雷の音が鳴る。近いところに落ちたのかもしれない。
 途端、灯りが消える。
 暗闇が訪れる。

 思わず、プーチンは暗闇の中でキレネンコの姿を追った。
 目に映るのは底知れぬ闇ばかりである。しかし、体温が、酷く静かな息遣いが。
 そこに在るのは、一人の人間だった。怪物じみて正体の見えない男は、暗闇と、嵐の音の中にあって、確かに一人の人間であった。
 ドクリ、プーチンの心臓が高鳴る。ふいにニコライの言葉が蘇った。『ボスが生まれたのも、嵐の日でした』。もはや、後戻りの出来ないところまで足を踏み入れている。いや、踏み入れていたのだ、それを聞く、ずっと以前から。
 手を伸ばせば、そこには体温があるのだろう。ひんやりと冷たいが、しかし確かに人間の体温があるに違いない。
 そ、とプーチンは手を伸ばす。何も見えないが、そこに男がいることが確かに“わかっている”。それは酷くゆっくりだったが、それでも、目当てのものに達するまでプーチンはその手を止めなかっただろう。
 しかし。
「キレネンコ、さん……?」
 プーチンの手が届くより先に、キレネンコのやはり冷たい手が、プーチンの腕を握っていた。握る手の力が、強い。もぎ取られてしまいそうなほどに。
「あの、僕、ロウソクを……」
 それは最後の悪足掻きとも言うべき、逃げ口上だった。しかし、もうプーチンは分かっていたのだ、逃げることなどできないと。この男の中に既にプーチンは深く足を踏み入れてしまっていて、抜け出すことなど出来ないのだと。
 腕を握っていた手が、上に昇っていく。ス、とそれが首を撫でたとき、意味など無いのにプーチンは目をギュッと固く瞑っていた。
 冷たい手は、頬へ、耳たぶへ。

***

 嵐の喧しい音よりも、プーチンの耳に大きく入るのは自身の荒い息遣いだった。
 既にどろどろに溶けてしまって、自分の正体すらわからないでいる。部屋は以前暗闇に包まれ、しかし、闇に慣れた目は僅かにキレネンコの影を映している。朧な視界の中でもわかる傷に覆われた身体のその体温を、プーチンは全身で受け止め、既にそれが自分のものか相手のものかすらわからない。
 時折プーチンの髪をかき上げる冷たい右手だけが、彼と自分が別の人間であることの証だった。沈められた杭も、密着した肌も、時折落ちる汗の雫も――どちらのものかなど、もうどうでも良いことのようにプーチンには思われるのだ。
 それを示すかのごとく、プーチンはキレネンコの右手を取り、強く握り締めた。ほんの一瞬、キレネンコが動きを止めたような気がする。それでも構わない、プーチンは握った右手を離さずに、同じ熱を感じ続ける。
 外では冷たい雨が風が吹き荒れている。
 冷えた暗闇の中で、2人の熱だけがはっきりと存在している。




















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いろいろ出しておきたい設定があって、特にボスの場合はそれが多すぎるから出せるところでできるだけ出してしまいたいのですが、うまくいかない……。
本当はロシアンマフィアのタトゥーについてもっと触れておきたかったんです。
ボスの身体にそれがあるのか否か、とか……。書けなかったのでまた先送りですが。
ロシアンマフィアのタトゥーにはいろいろと意味があるとのことで、突っ込んで書きたいなあと思っている次第です。
ちなみに監獄ではいろいろと全裸になる機会もあったので、“それ”以前からもボスの裸体についてプーチンはいろいろと知ってますよ、と。
ボス母についてはあまり重要ではない予定の設定なのでさらりと……
父は重要人物になる予定ですが。予定は未定ですが。
ニコライさんが双子について触れなかったのは、わざとなのですね。
彼もまた、多くを語らない人間なのです。
ニコライさんは今後また出てくるかもしれません。

あと、一行が隠れている部屋は、元々街頭に立つ娼婦たちの控え室的に使われていた家屋という裏設定があります。
これも、本文中で書きたかったのにタイミングが無かった……。

と、本文で語らずあとがきで語ってみる罠。
未だかつてないほど長いあとがきになってしまいました。



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