北の村、暗い森











 昔むかしのロシアの国に、ある北の村があった。村にはいつも厚くて黒い雲が立ち篭め、太陽の光は滅多に入ってこない。作物は実らず、燃料にする薪も湿り通し。春になっても溶けない雪のせいで、足のない農民たちはこの村から出ていくことも、また入ってくることもほとんど叶わない。暗い暗い村だ。
 がりがりに痩せ細った村人たちは、いつも腹を空かせていた。温かさに飢えていた。溶けない雪は土地のみならず、人の心をも凍らせた。
 村のはずれにある森は、その中でも一等暗かった。愛らしい小動物など住んではいない。昼夜を問わず、飢えた猛禽類が目をぎらつかせ、低いうなり声を上げている。
 この、村人も決して寄り付かない暗い森には、いつしか異端の者が住み着くようになった。そして、村人たちはますますこの森を避けるようになった。

 その森を裏にして、大きいけれどみすぼらしい館が建っていた。この地を治める、領主の一族が代々所有する屋敷だ。不在地主である彼らはほとんどこの粗末な地に近寄ることはなかったけれど、何年かに一度、言い訳程度に一家でやってきては数日を過ごし、村人たちの絶望を背にさっさと去っていくのだった。
 ある年の春の日、雪が残る村に立派な馬車がやってきた。領主一家の馬車だ。彼らは飢えて働くこともできず路傍に立ちすくむ村人たちを尻目に、雪掻きがされていない道への不満を叫びながら、雪に竦む馬に鞭を打ちつけ、屋敷へと向かった。
 数年前と違っていたのは、領主夫妻が数名の使用人のほかに、彼らの1人息子、レニングラードを連れてきていたことだった。以前は幼くて夫人が同行を許さなかったが、今回は領主のたっての希望で、愛息を傍らに座らせこの暗い村へと連れてきたのだ。
 レニングラードは、12歳。領主自慢の出来た息子で、賢く、運動もその年の子供中では人並み以上にこなすことができ、豊かさゆえのどこか浮世離れたその容姿は幼く、またそれゆえに美しく、そのうえ心根も優しかった。そのため彼は、父が治めるこの村の存在を知ったそのときから、その不遇と不運を憂いていた。

「父上、村人たちは飢えています。これでは、来年のために畑を耕すことも叶いません。施しをされてはいかがですか」
 幼くつたない口調ながらも、大人びた言葉を意識しているかのように、レニングラードが言った。
「何を言うか。農民は、馬と同じ。鞭を打って打ってはじめて働くのだ。お前も、私の世継ぎならばそこのところをわきまえておくように」
「……はい」
 ぱちぱちと暖炉の火がはぜる音は、レニングラードの耳には届かなかった。ただ、父である領主の低い残忍な笑い声と、自分の心臓が鼓動を打つ音を、出所の不明瞭な強烈な罪悪感をもって、ぼんやりと聴いていた。

 食後、レニングラードはこっそりと屋敷を出た。暖炉の火にあたる自分の身体、ちりちりと温もる皮膚を罪の証のように感じ、いてもたってもいられなくなったのだ。
 そして、その罪悪感をもレニングラードは醜いものと感じはじめていた。食事の際に父が言った言葉、『農民は馬と同じ』、まったくもって悪の発言であるが、レニングラードは昼間鞭打たれた馬車馬と、道の端に立ち尽くしていた農民を確かに重ね、哀れんでいたのだ。
 根拠のわからない罪悪感ばかりが増していく。それから逃れる術は、数限り無くあろう。しかし、幼く清廉なレニングラードにはそれを見つけることも、是認することも叶わなかった。
 そして、そんな小さな闇を抱えたまま、彼は暗黒の森へと歩を進めたのだ。



 森は暗く、ひゅうひゅうと木の隙間を無気味に冷たい風が抜けていく。レニングラードは、その細身の身体に巻き付けるように来たコートの前を合わせ、凍るように冷えきった真っ白な耳に手を当てた。吐く息は当然のごとく白く、ブーツの底はもうずっと雪と霜を踏み付けている。
 命のない森だと、レニングラードは思った。こうまでに木々は生い茂っているのに、そこに生命の気配はない。鳥のさえずりや小動物のざわめきはなく、木々や草花もまるで人工に作られたかのようだ。
 暗い森。この森がそう呼ばれている理由が、レニングラードはやっとわかった気がした。
 ほんの僅かな木々の隙間から、真っ黒の空と朧月が覗く。崩れたような月の儚さは詩に歌われるように美しいはずなのに、何故か恐怖を駆り立てる。
(あの月のように、溶けて消えてしまいそうだ)
 なぜそんなことを思ったのか、レニングラード自身もわからなかった。ただ、この暗闇の森では自身の身体も暗く黒く、まるでこの闇に自分自身が溶けてなくなってしまったかのような、そんな気持ちがしたのだ。
 ぶるりと寒気がして、レニングラードは深くフードを被った。けれど、そうすることでますます、自分と森との境目があやふやになってしまうような、そんな気がするのだった。

 そのとき、ふくろうの声に混じって誰かがレニングラードに囁きかけた。
「ねえ。ねえそこのきみ」

 ぶるりと底冷えする、まるでこの森そのもののような声だ。レニングラードは、冷たい風が自分の身体の芯からも吹いてくるような心地がした。それは真っ黒でどこまでも暗く、そして深く、幼く小さなレニングラードなどひとくちで飲み込んでしまいそうなほどだった。
「誰。誰なの」
「僕さ」
「いったい誰なの。僕は君のことなんて知らないよ」
「そんなことは大したことじゃないよ。僕らはこれから知り合うのだから」
「それなら、せめて顔をみせてよ。僕、」
 こわいよ。
 その言葉を、レニングラードはぐっと飲み込んだ。臆病だと思われたくなかったのだ。
 そんなレニングラードの年相応の意地っ張りを見透かしたかのごとく、声だけの声はくすくすと笑い声を上げた。それはまるで鳥のさえずりのように軽やかだったが、それでもどこか恐ろしいものを秘めていた。
「友達になってくれるって約束するなら、顔を見せてあげる」
「友達?」
「そう。僕は君と友達になりたいんだ、レニングラード」
 ともだち。そう聞いて、レニングラードは緊張の糸を緩めた。レニングラードも、ここで過ごす間の友達が欲しいと内心は思っていたのだ。しかし、彼はこの土地の人間にとっては憎むべき領主の息子であるし、それについては諦めかけていたところだったのだ。
 緊張の糸が緩むと、同時にレニングラードの心にはわくわくするようなものがこみ上げてきた。友達。それに、こんな暗い森に物怖じしないで入っている、勇気のある友達だ。
 そんなだから、レニングラードの頭にはなぜ声の主が彼の名前を知っているかだなんて、疑問に思う隙はなかった。
「いいよ。友達になろう」
「本当に?」
 弾んだような声がして、ばさりばさりと木が揺れると、ふいにそこからカラスのような黒い影が舞い降りてきた。
 驚き目を丸くするレニングラードの前でその影はゆっくりと身体を起こして、それから飛ぶように軽やかな足取りでレニングラードに向かって歩み寄ると、
「はじめまして、レニングラード」
 そう言って、にっこりと笑ってみせた。



 その日から、レニングラードは夜ごとに屋敷を抜け出すのが日課となった。夜の森は相変わらず不気味で恐ろしかったが、12歳の男の子らしい意地っ張りと、それに何より新しくできた友人が彼をこの夜ごとの密会へと誘った。
 まるで疾風のごとく突然に現れた友人は、名前を名乗らなかった。けれど、それでも余りあるくらいに彼はレニングラードにとって愉快な友達だった。
 彼は、レニングラードと同い年か、ほんの少し年上かというくらいだった。瞳は青色で髪は金色、手足は細く白く、雪にぼんやりと映えるその顔は女性的に細やかな造りをしていて、薄い唇から漏れるか細い声もそのどこか病的な雰囲気を強調するかのようだ。
 しかしそれでいて、彼は森の中にずいぶんと精通していて、生き生きとしていた。彼は真っ暗な中でもまるで昼間の如く軽やかに、レニングラードの手を引きながら歩き回るのだ。そして時折、不思議な形をした木の実や、きらきらと光る小石、綺麗な音色を奏でる草笛、そんな森の宝物をレニングラードにプレゼントしてくれた。

「この森には、魔法使いが住んでいるんだ」
「そんなの、嘘だよ」
「嘘じゃないさ。この森は真っ暗だろう? 魔法使いは、その暗闇を煮しめて年を取らない薬を作るんだ」

 それに、彼の言う冗談はどこかクールで厭世的な、大人びている感じで、同い年の友人たちとは明らかに違いがある。それもまた、レニングラードにとっては冒険に近しいわくわくすることのひとつだった。
「ねえ。レニングラードの目の色は、あの月と同じ銀色だね」
 あっという間に、レニングラードは彼と遊ぶのに夢中になった。

「ねえ、きみはずいぶんと森に詳しいんだね。ここで暮らしているの?」
 彼と出会ってちょうど5日目の夜、レニングラードはそう尋ねた。先頭に立って真っ白く輝く雪を踏みしめながら歩いていた友人はゆっくりとレニングラードを振り向き、その青い宝石のような瞳をじっとレニングラードに向けた。
「レニングラードは、僕について知りたいの?」
 その顔が凍るように冷たかったものだから、レニングラードは思わず背筋をぞくりとさせた。まずいことを言ってしまったのだろうか?
「ご、ごめん。言いたくなかったらそれでいいんだ」
 慌ててレニングラードが俯くと、彼がゆっくりと近寄ってくる気配がした。
「あの……」
「しっ」
 彼は、突然レニングラードの手首を引っつかみ、近くの茂みへと引っ張りこんだ。
「な、なにを……」
「静かに」
 がさり、がさ、がさ。ううう。
 彼がレニングラードの口を右手で塞いだのと、木陰からずんぐりとした大きな影が出てくるのとがちょうど同時くらいだった。

「狼だよ」
 唸るような低く静かな声で、彼が呟いた。レニングラードの背筋に緊張が走る。
 ちょうど雲で僅かに隠れた満月の下、確かにそれは絵本に出てくるような銀色の狼だった。目はらんらんと輝き、鋭い牙と涎が口の端から覗いている。
 そして――
「獲物だ。あれを、今から食べるつもりなんだよ」
 確かに、狼はその足元に何かを引きずっていた。
 レニングラードは、ごくりと唾を飲み込んだ。そして、その音があの狼に聞こえてやしないかと思って恐ろしくなった。ぎゅうと、汗ばんだ手を握り締める。
 狼の口から白い煙となって吐き出される息、その生臭さを感じられるかと思うほど、その影はレニングラードの近くにいるのだ。
 ぐるるるる、と低い唸り声を上げ、狼は足元の獲物の喉笛にかぶり付いた。
 白い雪に、真っ赤な血が流れ出る。
 がつがつと音を立てるかのごとく、狼は獲物の肉に齧り付き、引きちぎり、咀嚼し飲み込む。それを何度も何度も繰り返す。血を伴う肉食。晩餐。
 レニングラードは小刻みにカタカタと震えた。歯が鳴るのを抑えるために必死で歯を食いしばり、血が滲むほど唇を噛む。
 それは、おそろしいまでに本能の塊だった。
 隣にしゃがんでいる友人は、それをじっとその青い瞳で見つめている。
 レニングラードは、恐ろしくなった。

 やがて、狼は長い長い、レニングラードには永遠とも思えた食事を終え、何処かへと去っていった。  暫し、彼とレニングラードの間には沈黙が流れた。
「ねえ、レニングラード……」
 友人の冷たい手が、レニングラードの頬をそっと撫でた。
 途端、レニングラードは逃げ出していた。暗い森の中を。真っ暗闇から。

 真っ暗な森の木々の隙間から、ずっと、ずっと、レニングラードの背中を、友人の声が追いかけていた。




















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プロローグにすらなっていないプロローグってどういうこと……
もう、お前オリジナルで書けよっていうくらい俺設定な感じでごめんなさい。
次回もこんな感じです。



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