数年後











 あの暗い森から逃げ出して数年経った夏の日、レニングラードは再び北の森へと向かう馬車に揺られていた。前回と違っていたのは、彼らが逃げるようにしてモスクワから発ったこと、それに、ずいぶんと格の低い馬車2台に、家財道具全てを積んでいたことだった。
 レニングラードの目の前には、昼間から酒に顔を赤らめた父が大いびきをかき、母がその臭いに眉をひそめている。不在地主として領地を離れながらモスクワで暮らしていた父は、ちょうど半年前に事業で大きな失敗をし、ほとんどの財を失った。
 今回モスクワを離れたのは、領主としてその土地を治めるためとは無論名目、夜逃げと同じようなものだった。今ごろ、モスクワの屋敷では借金取りたちが地団太を踏んで悔しがっているに違いない。
 数年前この道を心を痛めながら通り過ぎた、美しく幼い少年の姿はすでにそこに無く、代わりにあるのは立派に成長した逞しい青年の姿だった。
 上品に丸みを帯びていた輪郭は精悍な青年のものへとすっかり形を変え、四股には貼り付けたかのように綺麗な筋肉の線が浮かび上がっている。しかし、その瞳はかつてその二つの宝石を銀色に輝かせていた少年時代をすっかり忘れたかのごとく、灰色にくすみ、陰鬱とした現状のみを見据えていた。
「レニングラード、せめてあなただけでもギュスターブ伯父様のもとに残れば……」
 母がそれきり1つだけの扇子の裏側から漏らした母方の伯父の名に、レニングラードは密かに嘲りめいた笑みを漏らし、静かに言葉を返した。
「伯父さんに迷惑はかけられませんよ」
 それを聞くと、母は仄かに顔を赤らめ、それを隠すかのようにふいと横を向いた。彼女が兄に借金の懇願をしたことについて、レニングラードが知っていると気付いたのだろう。
「なんて、陰鬱な土地……」
 馬車の窓から微かに覗く風景は、思いでそのままに暗い。
 夏のじわりと汗ばむような蒸し暑さの中、レニングラードは気を失うかのようにうつらうつらと少年時代の思い出を脳裏に浮かばせていた。

 暗い森……月を映す湖……ふくろうの鳴き声……雪の下に埋もれた団栗……
 狼の鳴き声。

「レニングラード!」
 母の声に目を覚ますと、すでに馬車は止まっていた。カーテンの隙間から覗いているのは、見覚えのある屋敷の屋根に違いない。
「まったく……あの人ったら、着くなりお酒だなんて……!」
 イライラとした足取りで、母はレニングラードに背を向けさっさと屋敷の中へ入っていってしまった。
「レニングラード様、屋敷の中にお茶の準備が出来ております」
 馬車の外には、数年前と同じく腰の曲がった老執事、グレゴーリィが更に腰を曲げてレニングラードが馬車から降りるのを待っていた。
「ああ……今行こう」
 寝起きの、ふらつく足取りで馬車から飛び降りる。
 赤い屋根の向こうには、暗い森が広がっている。
 ふと、木々の陰に小さな人影が見えた。
「……!?」
 見覚えのある青い瞳。金色の風に靡く髪。あの日、雲に隠れた月の下で見た――
(……嘘だ!)



「レニングラード? ねえ、レニングラード!」
 再び、母の声がレニングラードを現へと呼び戻した。そう、あれは幼い日の幻影だったのだ……
「まったく、あなたまでぼんやりと……お願いだからしっかりしてちょうだい!」
 ツンとした美しさを保っていた母は、どうやら豊かさと同時にその美しさをも削ぎ取られ、ヒステリックさのみが残ったかのようである。おまけに父は酒に溺れあの調子だ。レニングラードは、どうやら底の近い穴への落下の浮遊感に、暫しその身体を預けようという、怠惰な思いつきに身体を委ねた。
「母さん、僕は部屋に戻ります」
「ちょっと、レニングラード……あなた! お酒ばかり飲むのはやめて!」
 金切り声を背に、レニングラードはその口元に苦笑いを浮かべ、自室へと向かった。
「レニングラード様、」
 そこへ、慌てて屋敷の手伝いをしている下女、グレーゴリィの老妻であるマルファが駆け寄ってきた。
「すみません、考えていたよりも皆様のお着きが早かったものですから、その、お部屋の支度を……」
「構わないよ」
「いえ、ただいま支度をしております最中でして……」
 おや、とレニングラードは首を傾げた。この屋敷の手伝いをしているのは、グレゴーリィとマルファの2人のみのはずだ。グレゴーリィは馬車から荷物を降ろしているはずで、マルファは目の前にいてさきほどからお茶の準備をしていた。いったい、誰が?
 レニングラードの疑問を即座に感じ取ったのだろう、マルファは慌てて言った。
「その、身寄りの無い子供を1人、引き取って育てているのでございます。ご主人様には書簡でお許しを……」
 父からは何も聞いていなかったが、レニングラードはマルファの言葉に妙に納得することができた。彼ら老夫婦の間には子供が無いのだ。それも、望んでのことではなく、どうやらグレゴーリィに子を作る能力がないとかで、欲しくとも出来なかったのだと聞いたことがある。
「ですから、暫しお茶を召し上がってお待ちを……」
「いや、構わないよ、新しい家族の顔も見たい」
「いえ、その、」
 構わないったら、と、更に言い募ろうとするマルファを半ば押し切る形で、レニングラードは階段を昇り自室の前へと辿り着いた。耳を済ませると、確かにごそごそと何事かしている音が聞こえる。
 軽く扉をノックし、「入るよ」、レニングラードは扉を開け――目を丸くした。

「はじめまして、レニングラード様」
 そこにいたのは、あの……暗い森での友人、そのままの姿であった。



 老夫妻の養子である男の子は、年の頃はだいたい12か13、グレゴーリィが6年前に村のはずれで拾ったのだそうだ。その当時は口が聞けず、父も母もとうとう子供の口からは聞きだせなかったのだが、その日以来森に住み着いていた白痴の娘が姿を消したことから、彼女の子ではないかと密やかに噂された。
 この両親のない子を寡黙な老夫グレゴーリィが胸に抱いて屋敷へ戻ったとき、マルファはその目に一縷の悲しみを一瞬湛えただけで、あとは無言のままにその子に新しい服を着せ、スープを与え、暖炉の前へと導いたのだという。彼ら2人は敬虔なキリスト教徒であった。
 グレゴーリィはこの子供に洗礼を受けさせ、パーヴェルと名をつけて言葉を教えた。どうやら言葉を喋らなかったのは障害があったというわけではなかったらしく、2、3年もすると拙いながらも言葉を操るようになったそうである。

(そうだ、年齢が合わないじゃないか。あの時、彼はおれよりもっと年上だったはずだ)
 夕食が終わるとレニングラードはひとり、部屋に篭り、内心の動揺を抑えるかのように自分に言い聞かせた。そうだ、まさかそんなはずはない。第一、グレゴーリィに拾われたとき、パーヴェルは6、7歳くらいだったという話だ。
 しかし、それにしてはパーヴェルは記憶の中の“彼”とあまりに似すぎている。
(もしかすると、彼の弟か何かでは……)
 そうだ、そうかもしれない。パーヴェルの母親は森に住んでいた女かもしれないとグレゴーリィが言っていたではないか。ならば、彼と血が繋がっているという可能性は大いに有り得る。なんら不思議な話ではなく、不気味さもない。恐らく、彼らの母親がなんらかの理由で亡くなり、既にある程度成長していた彼はともかく、当時まだ幼かったパーヴェルは捨てられたのだろう。それをグレゴーリィが拾ったのだ。

「レニングラード様」
 ドアの外で聞こえたのは、まさにそのパーヴェルの声だった。
「どうぞ」
「失礼します……」
 まだ幼いその少年は照れているかのように扉を開けて、暫くは入り口のあたりでもじもじとしていた。
「どうかしたの?」
 レニングラードが尋ねると、その青白い頬が僅かに上気しピンク色に染まる。
 あのころは頼もしく見えた姿が、今にはこんなにも幼く見える――そうふと思って、レニングラードはそんなことを考えた自分に苦笑いを漏らした。当たり前だ、“彼”とパーヴェルは別人なのだから。
「あの、僕……レニングラード様と、その、お話がしたくて……ごめんなさい」
 年相応のはにかみを見せる少年に、レニングラードは今や愛らしささえ覚えていた。この貧しい寒村だ、年の近しい友人もほとんどないのだろう。母あたりが知れば眉を顰めそうではあるが、そのかわいらしい願いにレニングラードはここ暫く感じていなかった温い安堵を感じた。
「いいよ。さあ、ここにおいで」
 書き物をしていた手を休め、レニングラードはパーヴェルのためにもう1つ椅子を出してやり、それを勧めた。少々ためらっている様子ではあったが、嬉しそうにパーヴェルが駆け寄ってくる。
「お菓子があるけど、食べる?」
 偶々持ってきていた缶入りのキャンデーを見せると、パーヴェルはぱっと顔を輝かせ、その色とりどりの粒とレニングラードの顔を交互に見つめた。レニングラードが微笑むと、頬を赤らめ何度も頷く。
「好きなのをお食べ」
 レニングラードがそう言うと、パーヴェルはその青い目にキャンデーの色を次々と浮かべながら迷っている様子だったが、暫くしてようやく意を決したらしく、真っ白のハッカ味を摘み上げた。
「それでいいの?」
 幼い男の子が選ぶには少々意外に思ってレニングラードがそう尋ねると、はい、と小さく呟いて照れるようにパーヴェルは目を伏せた。そして、おそるおそるといったふうに、その白い小さな丸を赤くぷっくりとした唇の中へと押し込む。
「おいしい?」
 こくりとパーヴェルは頷き、「ありがとうございます」と、小さい声で呟くように言った。
 その微笑ましい光景は、レニングラードの意識の中から幼い日の罪を漂白していくかのようだった。あの日、レニングラードは暗い森の中に1人、友人を置いて逃げ出した。レニングラードがパーヴェルを見て感じた尋常でない動揺は、それが理由でもあったのだ。

「ええと……パーヴェルはここに来て、6年、だったかな?」
 はい、と小さくパーヴェルが頷く。
「グレゴーリィと、マルファに、いろいろ教えてもらいました」
「学校へは?」
 その問いに、パーヴェルは小さく頭を振る。
「そう……」
「でも、字は、グレゴーリィが教えてくれました。聖書を読んで……」
 グレーゴリィは敬虔なキリスト教信者で、学はあるとは言い難いのだが、暇さえあれば随分と熱心に聖書を読み、様々なことに思いをめぐらせるのが常なのだ。なるほど、とレニングラードは頷いた。
「僕、本は好きです。グレゴーリィの部屋にも、たくさん本があって、何冊か読みました」
 レニングラードの父はグレゴーリィのことを随分と買っていて、彼には珍しいことなのだが、聖書についてグレゴーリィなりの解釈を聞いては議論をしたり、自分の古くなった書物を与えたりもしていた。グレゴーリィの部屋にあった本とは、それらのことだろう。
「じゃあ俺の本も読んでも構わないよ。街から何冊か持ってきたし、物置部屋にも仕舞ってあるはずだから」
「わあ、ありがとうございます」
 この部屋に入ってはじめて、パーヴェルは弾むような声を挙げて微笑んだ。その無邪気な笑みは、レニングラードにあの暗い森での楽しい冒険を思い起こさせるものだった。
「その……きみには、親兄弟の記憶はないの?」
 恐る恐る切り出されたそのレニングラードの問いは、しかし、レニングラードが最も気にしていたことには違いなかった。
 そのときパーヴェルが見せた顔は、
(嗚呼、)
「僕には……両親も、兄弟もありません」
 そっくりだ。
「でも……」
(あの、最後の夜、月の下に見た“彼”の顔に)

「“友達”は、いたよ」

 レニングラードは、目眩を覚えた。




















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文章崩壊\(^0^)/
こういう雰囲気書くのが苦手すぐる。
文章力をください! もしくは才能をください!



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