「おはようクソ野郎」











 植物の細胞のように並んだ小さな監房に縁取られた葉脈、そんな薄暗くて陰気な細い道を、支給された良くも悪くもないが少々足音が響きすぎる靴を鳴らして歩く。いくつもいくつもいくつもいくつも、同じ部屋ばかりが並んで同じように凶悪な目が通り過ぎる俺を睨みつけている。いつも何個か数えようとして途中でわけがわからなくなるのだ。そこから覗くのは俺の仕事のはずなのに、本当は奴ら、俺を覗くために集められたんじゃないかと狂った妄想を脳みその表面に浮かべた。そんなはずはない。
 俺らヒラ看守虫ケラ組は、なんともまあ無駄なことに、2人部屋の監房2室ごとに1人が宛がわれている。単純計算で虫ケラ1人が4人かそれ以下のクソを担当させられているわけだ。高尚な実験とやらのためと銘打たれてはいるが、俺に言わせればそんなことしている金と暇があるならボルトでも締めていた方がよっぽど人民のためになるんじゃないかと思う。勿論口には出さない。というか、ボルトを締めるよりよっぽどチョロい仕事だから、口に出す必要がない。ピンハネされまくりの給料はシベリアより寒いが、そんなもんどこだって同じだ。
 俺は今日から担当区域が変わって(“実験”とやらの一環で、一定期間を置いて看守たちは順繰りに担当の部屋を変えられる)、なんともまあ最低なことに一番奥の区域になった。その前は二番目に奥で、その更に前は三番目に奥だった。次は一番手前になるのだろうか。
 レンガの壁が目の前に迫ってきて、ようやく一番奥の区域に辿り着いたことに気付いた。これを毎日続けているのだから、幾分か給料に上乗せしてもらいたいものだ。
 ただちょっとしたオマケはあって、囚人は廊下の北側手前から南側奥に向かって順に1人づつ詰められ、囚人が出所した場合は空いた所に順に詰められていくから、この一番奥の南側は実質1人部屋になっている。つまり、奥の区域の担当看守は本来4人担当するところを3人で済ませられるのだ。面倒な食事の確認やシャワー、日に5回の点呼も、1人減れば少しは楽だ。トントンとは言わないけれど、損ばかりではない。損には違いないが。

 さて新しいクズの顔はどんなもんか、とニヤニヤしながら覗いてみると、なんともまあ、クズっていうのはどれも同じ顔をしているもんだ。世間を怨む落ち窪んだ眼孔やだらりとベッドに垂らされた四股、僅かながらの覇気すら感じられない。2人のクズが2人とも同じ様子をした双子みたいで、マジで笑える。俺のニヤニヤした目付きを見咎めた囚人の1人が不満げに睨みつけてきたが、どうせ俺が臭い生魚を差し出せば喰うんだろ?
 まあ、この侮蔑は自虐と等しい。俺も同じようなもんさ。そう、この刑務所は多分世界の縮図だ。表に出れば、この刑務所のような四角い細胞がいくつも並んでいて、それがいつまでも繰り返される。
 もう1人のクズを鑑賞するために、俺は狭い廊下を横切って南側の監房の前に立った。小さな小窓。ダレきった足を突いてやろうと、お気に入りの棍棒を右手に握った。
「……」
 別の目が俺を覗いていた。
 ここに来るまでの妄想が甦る。俺は見られているのか? 監視されている? 観察されている?
 もう一度覗いた。
「う、うわああ」
 2個の目玉がぎょろりとこちらを見ていた。
「どうした、カンシュコフ」
 同僚で隣の区画担当のミーチャが慌てて駆け寄ってきて、俺の前にある扉を見ると、「ああ……」と合点した声を上げた。
 何が、ああ、だよ。1人だけ分かっている感じがムカつく。そもそも、こいつは気に食わないんだ。軍人帰りだかなんだか知らないが、妙にムキムキしやがって。さぞ女にもモテるんだろうな、畜生……。
「ここにいる奴だろ? あいつは04番、この刑務所じゃフョードルの爺に続く古株だよ。神父のゾシマ爺さんが言うにゃあ、えらい問題児だそうだぜ。身体検査を拒否して検査室を全壊させたとかなんとか」
「ち、違う、目が、目が」
「目?」
「こっちを覗いてやがった!」
 なんだって? と言いながら、ミーチャは怪訝そうな顔をした。それがなんだ、とも言いたげだ。こいつは気付いていないのか? それが物凄く恐ろしいってことに。
「ま、奴みたいに長いことここにいりゃちょっとくらい頭もおかしくなるだろ。心配ねえさ、俺たちと気ちがいどもの間には分厚い扉が一枚、ちゃんと立っててくれるんだから」
 あるじゃないか、その扉にも覗き穴が――。
 まあどいつもそうだが、あのミーチャも事なかれ主義なのだ。俺が小便を漏らしそうなくらいビビっていることなんて、奴には日記に書く一文字にすら値しない事実なのだろう。
 だって、そうでなかったら、この刑務所2番目の古株がなぜ南側の一番奥の監房に1人突っ込まれているのかを疑問に思ってあることないこと噂し、来るべき時に備えるべきじゃないか。来るべき時っていうのは、その得体の知れない古い化物を担当する時、つまり今の俺の状況だ。
 しかし俺は歯車であって、動かなくなった歯車とは遍く怪物にバリバリと食われてしまう。食われたくない俺は、唾を飲み込んで、恐る恐る覗き穴のスライド式扉を横に引いた。

*

 それから夏と冬が一度づつ過ぎて、ここ一番の古株だったフョードル爺は肺炎を拗らせてぽっくり逝った。このぽっくりっていうのは言葉のあやで、そんなのんびりした擬態語は似つかわしくない苦しみようだったがそんなことはどうでもいい。要するに、04番はこの刑務所で一番の古株になったということだ。
 いくら時が過ぎようと、どうも俺の持ち場が変更される様子は無かった。つまりこういうことだ、俺は暗くて寒い廊下の一番奥、怪物が住む監房に押しやられた。最悪だ。俺が待ち望んでいた一番手前の区画は、俺をひとつ飛ばしてミーチャがいけしゃあしゃあと奪っていきやがった。
 心当たりはと聞かれれば、それはまあ、昨冬からの俺の始末書の多さと答えるほかあるまい。俺は無遅刻無欠勤、報告書の字は綺麗だし、資本主義者でもなければ口も臭くない。ただ始末書の数だけは昨冬から軽く100枚を越す勢いだ。
 それというのも、あの04番のせいである。
 喜ばしくないことに、俺が04番を担当しているという話は3日もおかずに所内中の看守たちに広まったらしかった。それは、04番があまりに有名であることに起因する。あの日ミーチャがちらりと漏らした噂はどうやら真実で、更にそれだけではなく奴は検査室破壊に加え、軽く2桁の看守を病院のベッドに送ったというのだ。
 事なかれ主義の看守たちは、「俺でなくて良かった」という安堵と、「俺には回ってきませんように」という畏怖、そして「ざまみろカンシュコフ」という嘲り、それらを少しずつ加えた同情を以って俺の肩を何度も叩き酒を飲みに行こうと誘った。無論全て断った。
 俺は様々な種類の怒りを同僚たちに覚えたが、それが04番への怒りに転化するのにそう大して時間はかからなかった。
 どうやら、俺には“怯え”という、侮蔑はされるが人類に必要な感情がやや欠如していたのかもしれない。あのとき、あの目玉を見たとき、俺は怯えて小便を漏らしみっともなく泣き喚いてミーチャに助けを請うたあとでさっさと地面に顔を擦りつけながら上司に転属願いを出すべきだったのだ。少なくとも、そうしていれば俺はこんな薄暗い廊下を長々と歩き続ける必要も無く、始末書の山に追われる夢を見ることもなく、そして、

「おはよう、クソ野郎」

 朝っぱらからジャーマンスープレックスをかけられて地面とキスすることだってなかったに違いない。





















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うわあなんて投げやりなオチなんだ!
これが投げっぱなしジャーマンってやつか!
なるほど!



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