雪上、一人











 あの、雪のカーテンの向こうに見える、怪物は何者か。

 国立犯罪者矯正施設、なんて長ったらしい名前の建物がシベリアのど真ん中に建てられている。吹雪の中不動に立ち尽くすその巨大な無機物は、どこまでも堅牢強固、時に白いカーテンを背景にしたその姿は、永遠すら感じさせ得る。それは犯罪者への威嚇なのか準犯罪者への警告なのか、あるいはそれがあらゆる存在の終着の姿なのか、誰も知らない。知ることはない。
 この光景を見た者は総じて竦む。人間の性として動物の性として、この巨大な建造物は、必ずや畏怖を掻き立てる怪物となる。ある意味では、かのアルカトラズ刑務所と同等か、それ以上に。
 ソビエト社会主義連邦共和国が成立しすぐ造られたこの歴史浅い施設は、その冠した名の通り、ソビエトの法に反した犯罪者を収容し、その矯正を目的とした施設、平たく言えば刑務所である。
 また、この施設には国立社会科学研究所が一枚噛んでおり、表立ってはいないが、社会心理学、犯罪心理学、集団心理学、洗脳術、尋問術、拷問術、その他もろもろ、先進的研究や技術を試す『実験施設』としての側面も併せ持っている。
 特に『洗脳術』なんて言葉がお上の耳に聞こえが良かったのだろうか、潤沢な予算がこの施設の売りだ。とは言え、それらが決してクリーンに愛すべき労働者たちへ分配されるとは限らないが。

 監房の多くは、犯罪者更正を研究しているDr.ワミーノフ氏によって考案された方式に順じて設計されている。囚人たちはそれぞれ2名ごとに個室程度の監房を振り当てられ、そこで強制的に模範的社会生活を送らされるのだ。彼らは、2部屋ごとに1人の看守によって常に監視され、その“模範的”生活を送るためのサポートを受けることとなる。
 ある意味この、パノプティコンそしてその向こうにあるあの憎むべき資本主義自由主義に真っ向から反するかのような刑務所施設は、博士や多くの国粋主義的科学者、そして化物の親玉たる人物たちから愛されていた。
 “彼らは隔離され収容されているが、決してそれは罪の罰のみのためではない。社会のはぐれ者の彼らが理想的人間に自身を矯正するための訓練の場でもあるのだ”――とは博士の言葉であるが、思い出せ、貴方の敵、レミ・ベンサムとて同じことを言っていたではないか! ……しかしこの監房が博士の人類愛の結晶であることは事実なのである。
 ただ、反証のためにと、5名〜7名を収容し彼らを看守がこっぴどく苛め倒す“伝統的”集団監房も用意されているあたりは、まさにこの国の無邪気な残酷さを表しているかのようで実に微笑ましいではないか。

 化物の子は怪物なのである。それは大きな口を開き、我々を食おうとどっしりと待ち構えている。逃れることなどできはすまい、我々は自らそこに立ち入るのである。

*

 ――以上のことをゼニロフが長々と語り終えたとき、彼の目の前で焼き菓子を摘んでいた知古の友人ロウドフは、ぽかんと口を開けっぱなしにしてゼニロフの色素が薄い灰色っぽい目をじっと見つめていた。
「……なんだ、聞いてなかったのか?」
「いや、聞いてたさ。しかし……その、なんだ、結局お前は国粋主義者か?」
「さっぱり聞いちゃいないじゃないか。はじめに言っただろう、俺は資本主義者なんだ」
「ああ……」
 ぽかん、と再び開けっ放しになったロウドフの口に、ため息を吐きながらゼニロフはお手製の焼き菓子を放り込んだ。ムシャムシャとそれは咀嚼されたが、ロウドフがそれを飲み込んでからも暫く沈黙は続いた。
「これでも、お前を一番の友人と見込んで話したんだぞ」
 とうとう、我慢が出来ずにゼニロフが吐き出した。
 そう、そうだ。彼は、今までこの秘密を誰にも話したことはなかったのだった。今まで、そっと胸のうちに熱く煮えるその秘密を隠しおおせてきたのだ。ようやく今、それを吐き出したというのに、彼が発したのは「ああ」という呆けた声と、焼き菓子を噛み潰す下品な音のみだ。
「い、いやその、嬉しいよ」
 ゼニロフの眉間に、正視し難いほど深い皺が刻まれたことに気付いたのだろう。ロウドフは取り繕うかのようにそう言った。いや、実際取り繕うために、そう言った。
 何を取り繕ったのか?
(わからない。それが問題だ)
「俺を密告する気か?」
「ま、まさか!」
「だろうな」
 望んだ反応は返さなかったにせよ、この目の前の男が自分を売り僅かばかりの報酬を手に入れんとする卑怯者でないことを、ゼニロフは重々承知していた。だからこそ秘密を話したのだ。しかし、密告しなければいいというものではない。ゼニロフは、確かにそれに加えた“何か”を、ロウドフに求めているのだった。
「では、俺と一緒に亡命でもしてくれるか?」
「えっ。い、いや、その……俺は、」
「……だろうな」

 ロウドフの困った顔を見て、ゼニロフは泣きたくなるような温もりを胸に感じた。ああ、これが俺の愛した男の姿だ。共産主義者たちめ、ざまをみろ! 俺は、こんなにも幸せなのだ。
「その……すまない、泣くなゼニロフ」
「触るな!」
「悪い、しかし、俺はそんな……難しいことはわからんよ。俺の目の前にいるのは、資本主義者でなくゼニロフ、お前だ。俺はお前を好きだし、別に何を聞いてもそれは変わらなかったんだ」
 悪い、悪いな。俺は頭が悪いんだ――呟くように、ロウドフはその厳つい外見に似合わず、言い訳をする子供のように言葉を重ねた。悪いな。
「いや……悪くなんてない。悪くなんてないさ」
 俺のほうこそ、振り払ってすまなかった。静かに、しかしはっきりとした口調でゼニロフが言った。彼は、凛とし透き通った、まるでこの国の大地がごとき話し方をする。
 そして、目の前のごつごつと浅黒い、骨ばった手を握り締めた。白く細い、氷のような手だ。
「しばらく、こうしていてくれないか」
「ああ……そうだな。そうしよう」
 紅茶が冷めていく。

*

「――お前も、昔はかわいかったのになァ」
「ハァ?」
 ぼんやりと呟かれた囚人労働担当第2級看守の戯言に、事務会計担当官が心底嫌そうな顔をして心底嫌そうな声を上げた。また、彼らの死角では、チビで根暗そうな顔をした第3級看守が、会計官と同じく、反吐を吐きそうな顔をして上司と会計官のやり取りを見ていた。
「ほら、兵役から帰って、ここに来たてのころさ。お前の家に行っただろ? お前、なんだかいつになくしおらしい顔して……」
 やめてくれやめてくれやめてくれ、とこの間3級根暗看守は心の中で呪詛の詞を唱えていた。そんな情報不必要だ、やるならどうか俺のいないところで。
「眠たいなら、表で囚人に混ざって雪掻きでもしてくるか? そしてそのまま凍死してくるといい」
 恐らく外の猛吹雪よりも冷たい空気を以って、ゼニロフはロウドフを振り返りもせずそう言い捨てた。しかしめげないロウドフは、いやそれとも場の空気を読むことができないのか、更に会計官の地雷原へと踏み入っていく。
「また、そういうことを言う。俺、昔はお前のこと弟みたいに思ってたんだぜ?」
「……お、と、う、と?」

 なあカンシュコフ、と無意味な問いかけを受けた3級看守は、何か非常なストレスを感じたらしく胃の辺りを押さえ労働者たちの詰所から逃げ出していった。




















------------------------------------------------------
監獄ライフ、看守組の章です。
メインはあくまで赤緑(おまけ看守)なので、サブエピソード的なものとしてお楽しみください。
もしかしたら別項に分けるかも。

一応労働×銭なのですが、とても精神的BLなお2人です。
恐らく銭さんは当サイトの中で最もBLBLしてるキャラクターですが、
頭が良い(という設定)のため、ぐちゃぐちゃと考えすぎて芯のところを見失ってしまった人、という感じ。
ですが、いかんせん書いている人間が頭悪いので彼もまた頭が悪く見えてしまうという罠。
それと、冒頭の文は共産主義を皮肉った銭さんの独白として書いたのですが、
彼は憎しみと愛情をとても近しい位置で持っている人なので祖国に対しとても伝え難い感情を持っているのです(という設定)。
労働はとても鈍感です。でも真っ直ぐです。
銭はそんな労働の真っ直ぐさが好きだから、
その真っ直ぐさがどれだけ自分を傷つけたって労働への愛しさを感じずにはいられないそうです。
とても不毛な2人なのですが、その不毛さがBLっぽくて良いのではないかなあと個人的には思っております。

でも正直銭×労働も好みすぎて、いつか別設定で書くかもしれない……!
まあいいよね、やおいサイトだもん。

あと、作中のDr.ワミーノフはものすごくおざなりに創作したキャラクターなのですが、
パノプティコンとレミ・ベンサムは実在の施設構想および人物名です。
パノプティコンはいつかネタにしたいと思うほど好きなのですが、
不勉強ゆえ勘違い等ありましたら「まあ……パラレルかな!」という感じで見逃してやってください。

書いてみたら予想外に労働×銭に萌えて、あとがきが長くなってしまいました。



inserted by FC2 system