忍び寄る闇










 カンシュコフが懸念していたとおりに、541番プーチンは本当に、本当によく喋る――カンシュコフに言わせれば、“とことん鬱陶しい奴”だった。
「あれだけ一日中しゃべりまくってどうしたら話題が尽きないのかわからないが、ともかくあの口に栓をできるなら、俺は多分あのホモのH・Hに尻を触られても許すことができる、ただしそれ以上は絶対に許さない」
 これはカンシュコフが、541番が入獄し一週間経った日の朝、心のうちで叫んだ言葉だが、彼にとってプーチンがまさしく天敵たるべき人種であることの、とてもわかりやすい例である。

 それはともかく、ここ最近の刑務所内はかつてないほどにざわついている。というのも、前代未聞の脱獄者が出たのだ。
 やってのけたのは、囚人番号555番、スミノフ・ユーヴィチ・リェービスキー。あの541番と同時期に入ってきた囚人だ。
 カンシュコフは担当にこそならなかったが、スミノフの入獄時に特別に警戒令が出されたのは覚えていた。
 なにやら、他の刑務所で数度脱獄をしてのけ、最終的に今まで破獄の経歴が無いアバシリャー刑務所に移送されてきたとか言う話で、その時点でカンシュコフは「なんとも鼻持ちならない奴だ」くらいにしか思わなかったのだが、今回の脱獄ではそれを更に上塗りしたということになる。そして、アバシリャー刑務所はその警戒も空しく、まんまとその恥辱を許した、というわけだ。
 それだから、この事件は、看守やその他の職員、もちろん囚人も、刑務所内にいる人間すべてに衝撃を与えた。
 しかし誰よりも衝撃を受けたのは、刑務所長のミウーソフには違いない。彼は若くしてその能力を認められこの実験監獄の所長に任ぜられた優秀な男(カンシュコフいわく高学歴でインテリを鼻にかけた嫌な野郎)だったが、破獄の混乱によって看守全員に訓示と勤務時間延長の懲罰を与えたのは、ばかな判断だったと断言せざるを得ない。どうも彼は、この国の労働者たちが彼が学んだ資本主義の国とは段違いにプライドが高く頑固であることを忘れていたのだろう。
 あのゼニロフでさえ、ミウーソフのロッカーの中に臭い液体がぶちまけられていたと聞いたときには意地の悪い笑みを浮かべたほどだ。
 つまり。
 カンシュコフのようなひねくれ者の数人を除き、看守たちは刑務所長および囚人たちへの憎悪を“たが”に一致団結し、今や人間集団の狂気を露わにし、その攻撃的性格を隠そうともしていなかった。
 ここに至り、今までミウーソフ以下『近代的理想を根本に持つ新しい刑務所』として秩序の中で機能していた実験監獄アバシリャー刑務所は、内からの狂気により、中世のそれへと逆行したのである。

*

「ねえねえカンシュコフさん、ここではじめての脱獄者が出たってほんとう? しかも、あの有名なスミノフ・リェービスキー? 僕、前に新聞で読んだことがあるよ。アオーマリィ刑務所や、コスガー刑務所から脱獄した人でしょう? わあ、あの人がここに入ってたんだあ。なんだかドキドキしちゃうなあ」
「お前、俺が無気力な看守で良かったよな」
 脱獄犯のことを目をキラキラさせて話すプーチンに、思わずカンシュコフは呆れ顔で呟いた。とは言え、小さな声だったからプーチンには聞こえなかったらしいし、別にカンシュコフもプーチンへの返事としてそう言ったわけではなかった。
「どんな人なのかなあ。きっと強そうで、頭もいいんだろうなあ。だって、僕は脱獄なんてそもそも考え付きもしないもの。ああ、どうやってここから脱獄したのかなあ。鍵を壊して……は、うーん、無理そう。鉄格子の間からすり抜けて……ものすごく細い人じゃなきゃ。穴を掘って……手が痛くなっちゃいそうだなあ……。」
 心配しなくてもそのどれも当局のクソ刑事たちが検証済みだよ、今度は声に出さずにカンシュコフは心の中だけで呟いた。

 今のところ555番がいかなる脱獄の手法を取ったのかは不明、だと言う。数日間に渡り当局が調査を行った末の結論だ。
 というのも、彼は脱獄の経歴から特別に厳重な監視体制に置かれていた。本来は04番や541番のような重罪犯と同じく2人1部屋の隔離房に入れられるところを、特例として反省房に入れられていたのだ。
 この反省房というのは、問題行動を起こした囚人が懲罰として入れられる、1人用の房である。
 扉の錠は他の房に比べても遥かに頑丈で、鍵はすべて中央司令室で管理され、入るときと出るとき以外にこの錠が開けられることはない。更に、反省房棟には、必ず1名の監視が巡回するきまりで、彼の房も1時間に数度、不規則に覗かれていたのだ。
 扉に開けられた食事の差し入れ口を兼ねた僅かな窓と、高い天井近くの人の頭が通る程度の小さな窓を除き、この房に隙間はない。もっとも、この高い位置の方の窓からは鉄格子が取り外されていた。
 しかし、足場になるようなものもないこの房において、果たしていかにしてスミノフがその窓に至ったのかすら、謎なのだ。それに、窓の外に足跡は無かったため、現場を検証した刑事たちは、時間を稼ぐためのフェイクだろうと断じた。
 物理的に、脱獄は不可能――な、はずだった。
 だからこそ、混乱は更に深く、暗く広がるのだ。

 あの、不可能なことなどひとつも無さそうな04番ですら、こうして大人しくベッドに転がっているというのに。
 確かに、スミノフがいかにこの石の箱から逃げおおせたのか、そう考えるとカンシュコフも下世話な興味をかき立てられることは否定できなかった。
「お前よりも面倒な奴がいたんだなァ……奴の担当看守は、半年間給料カットだとよ。そんなことになったら、俺ならどこまでも追いかけて脱獄犯を殺すね」
 果たしてキレネンコを殺すどころか追うのが可能なのかはともかく、カンシュコフはなぜか感慨深げに、ベッドでいつも通りスニーカー雑誌を読んでいるキレネンコに向かって言った。
 無論それは完全に無視されたわけだが、カンシュコフは、キレネンコが“できない”わけではなく、単に“する気がない”だけだったのだと後々知ることになるのだが、それはまた別の話である。




















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引きこもってたわりにあまり書き溜められず……
スミノフのモデルは、白鳥由栄という有名な(?)連続脱獄犯です。
この人のことは絶対書こうと心に決めていました。
ようやく監獄ライフになってきたのですが、いろいろとごちゃごちゃした文章に……
もっとキャラクターなどいっぱい出したいのですが、
オリキャラ作りが下手なためションボリです。



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