極寒の訪れ










 冬の足音が忍び寄り隙間風が突き刺すものに変わっていくにつれ、アバシリャー刑務所初の脱獄犯・スミノフを監獄の者たちの記憶から薄らいでいるかのように思われた。以前までは、囚人たちが合同の労働や運動時間に集まれば決まってスミノフの行く末についての根拠無い議論を捲くしたてたものだが、ついにそのネタも尽きたらしい。また時の経過以上に、言うまでもなくシベリアの冬は厳しく、他人の噂話をするくらいなら少しでも食料や毛布、衣類の隠匿に精を出さねばと思ったのだろう。

 だが、それはあくまで表面上の話だ。
 スミノフの脱獄を受け、刑務所長ミウーソフは刑務官たちへの懲罰として訓示と勤務時間延長を言い渡したのだが、これがまずかった。
 刑務所では囚人による反乱や暴動を防止するための苦肉の策として、それなりの食料が確保されている。三大欲求の一つを満たしてやることで凶暴性を殺ごうと、そういうわけだ。しかし、食糧不足の昨今、お世辞にも上級とは言えない刑務官たちへの配給食糧はごくごく僅かなものだ。ジャガイモだとか、キュウリだとか。血にも骨にもならなそうな。貧困と空腹に喘ぐ看守たちが、囚人たちの自分たちより多い飯を見て何を思うか――
 全ての者がそれに加わったわけではないが、スミノフの脱獄以来始まった看守たちの囚人いびりは、冬を迎えその過酷さを増していった。霜焼けた肌を容赦なく鞭打った。足元を温めるなけなしのフェルトのブーツを取り上げ、寒風吹きすさぶ吹雪の中での作業を命じた。
 特に、刑の軽い雑居房の囚人たちが従事する作業場では、それが酷いとの噂が立った。刑務所から遠く離れた所外の作業場に本来の監督役である1級ないし2級看守が赴くことはほとんど無く、やむを得ず、その役目は3級看守や模範囚が担うこととなる。そして、囚人への憎しみをより抱いているのは、より飢えた立場の低い者たちなのである。

 無論、囚人たちも黙って虐げられたわけではない。いやむしろ、スミノフ脱獄の直後は、やれ続けと脱走騒ぎや小さな暴動が頻発したものだった(これらも、看守たちを激昂させた要因のひとつだ)。やがて脱走が如何に困難そして不可能なことかとわかればその動きは収まったが、一筋の希望を得た者たちというのはどうしてこうも無謀になれるのだろうか。
 理不尽な扱いを続ける看守たちに囚人たちは怒り、暴れた。横暴な看守を刺した者は銃殺されたが、彼は囚人たちの間で英雄と讃えられた。これではまるで革命ではないか。いや、戦争か。
 評判の悪い看守が雑居房の夜警を勤める日、囚人たちは示し合わせて鉄格子を叩く。
 ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガンガンガンガンガン!!!



 雑居房棟の方から聞こえる不穏なリズムに、カンシュコフは制服を着替えながら密かに眉根を顰めた。
 看守側囚人側などという立場は関係無く、カンシュコフはただ最近の戦々恐々とした監獄の雰囲気に苛立っていた。気持ちのいいものでないのはもちろん、今度また騒動があって鎮圧に狩り出されたり、もっと悪いことに看守たちへの懲罰に巻き込まれたりなどしては敵わない。
 カンシュコフとて人並みに野次馬だが、それは自分に一切火の粉が飛んでこないことを確信した上でのものだ。今の監獄は、まるで互いにマグマを掛け合う活火山の頂点である。相手の、更には自分たちのマグマが掛かる可能性もあれば、噴火によって吹き出たそれに殺される可能性もある。最悪だ。

「『どうせなら相討ちしてどっちも死ねばいいのに……』 そう思ってないか?」
 は、と振り向くと、そこにはロウドフが口元に笑みを浮かべながら立っていた。ロウドフはカンシュコフと同じく2人用監房の看守だが、2級看守なので労働時間を専門とし複数の監房を担当している。3級のカンシュコフは彼の部下ということになるわけだ。
 ロウドフの笑みは、見慣れた苦笑や嘲りなど、そのどれとも違う真実味をもっていたが、しかしその姿を見てカンシュコフは隠すことなく不快の色を表情に出した。カンシュコフは、この一旦制服を脱げば途端に快活になる上司があまり好きになれない。言われたとおりのことを今まさに考えていたという事実も、ロウドフを好きになれない理由の一つだ。
「……あんたはどうなんだよ」
 イライラとしながらも、カンシュコフはロウドフに尋ねた。いつもならば無視したろうから、やはりカンシュコフも自覚せずともそれなりに不安を感じているのだ。
「俺? 何がだ?」
 ロウドフは、冗談や皮肉でなく本気で問い返したらしかった。カンシュコフの眉間の皺が濃くなる。
「だから、あのスミノフのこととか、ここ最近の看守どもの囚人の扱いとか、今鳴ってるこの最悪な音とか……」
 ガンガンガンガンガンガン……
「ああ、"そのこと"か」
 それ以外に何があるんだ、とカンシュコフは問いたかった。俺があんたに暢気に晩飯についてどう思うかなどと尋ねるとでも?
 ロウドフは愚鈍な男ではない、むしろ、先ほどカンシュコフの心を読んだように、むしろ鋭いほうだ。それはカンシュコフにもわかっている。しかし、妙なところで鈍いのか、それともわざとやっているのか――
「そうだなァ。俺はまだ特に困ってないが、雑居房の労働担当の奴はもう殺される前から死に掛けてるよ。俺たちは運がいいな」
 ハハハ、とロウドフは快活に笑う。そのからりとした笑顔を見ていると、カンシュコフは一瞬、彼の同僚が労働時間にどこから襲ってくるかわからないクギ、キリ、ノミ、ノコギリ、オノ、その他諸々に怯えていることをまるで非現実のように錯覚した。ロウドフは、カンシュコフとは別の意味で無関心なのかもしれない。
「だが、うちの方にもこの"波"がやって来るまで、そう長くはかからないだろうな」
 だからこそ、真顔で呟かれたその言葉にカンシュコフはぞくりとしたものを感じたのだった。



 ほぼ予定調和のようなものだったが、間もなくロウドフの言葉は真実となった。
 重罪犯や問題のある囚人などが入れられる2人用監房では、雑居房のように囚人が徒党を組むことはほぼ不可能で、看守たちも機械的な仕事をするため虐待なども雑居房に比べれば少ない。また、毎日同じ生活を反復する囚人たちに何かことを起こす気力はほとんど残っておらず、そう考えると暴動などが起こることはほぼ無いのではないかと思われる。
 しかし、連日雑居房から鳴り響いていたスプーンや器で鉄格子を叩くあの音が、去勢された囚人たちを呼び起こしてしまったらしい。

 信じられないことに、暴動の直接のきっかけとなったのは――541番、プーチンだった。

 ことの発端は、プーチンの労働時間の持ち場が変更されたことだった。
 それまでプーチンが従事していたのは、マトリョーシカの顔描きだった。これは必ず下っ端の新人に回される最悪な作業で、時間が掛かりノルマが厳しいくせに賃金は安い。顔が少しでも見本と違ったときは容赦なくはじかれる。おまけに大小5つのマトリョーシカをセットで完成させなければならないため、一つ失敗すれば5つともやり直し。失敗分のマトリョーシカの賃金はもちろん支払われず、更に失敗時は鬼のロウドフからの鞭のプレゼントが待っている。
 プーチンは割と器用なようだが残念ながら絵心がまったく無く、入所からここまで完成したマトリョーシカは雀の涙ほど。これでは赤字になってしまうとついにキレたゼニロフが、渋るロウドフに無理やり配置換えを承知させたのだ。
 ロウドフが配置換えを渋ったのは、何も意地悪というわけではない。2人用監房の囚人たちは皆、洗礼としてこの最悪な作業を通過してきた。ちょっと入ってきたばかりの囚人が特例でそれをスルーしたとなれば、当然ながら他の囚人たちはおもしろくない。
 誰も口にした覚えはないのだが、プーチンの配置換えは瞬く間に2人用監房棟の囚人たちの知るところとなった。
 果たして、ロウドフが懸念したとおり、プーチンの配置換えを知った囚人たちは怒り狂った。新たにプーチンが配属されたのが、かなり人気の高いマトリョーシカの組み立て作業、及び卵の回収作業だったことも大きかった。
 卵の回収へと向かうため監房を縫い通路を進むプーチンを、扉の小さな窓からどろりとした囚人たちの視線が見送った。カンシュコフは、いつもこの道を通るたびに自分が囚人か看守か、囚人が看守か、わからなくなる。そんな魔力が、この通路にはある。
 笑顔の裏で何を思っているかはわからなかったが、プーチンは見たところ新しい仕事を一生懸命こなしているらしかった。マトリョーシカに針が仕込まれていたり、卵の回収作業時には同じ作業をする囚人たちからのいやがらせを受けていたようだが、気付いていないのかそれとも気にしていないのか、誰に不平を漏らすこともなくマトリョーシカを素早く組み立て、卵を慎重にかつ素早く回収した。

 そして、プーチンの配置換えから1週間後。
 養鶏所の鶏たちに囲まれ、暴行を受け倒れたプーチンがロウドフによって発見された。




















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父さん、事件です。
監獄シリーズではまずこの件を書こうとずっと考えていました。
ここからいろいろとはじまる予定です。
ちゃんと終わらせられるかなあ。



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