前奏曲










 カンシュコフは医務室が嫌いだ。白まみれの部屋、消毒液のにおい、病人から醸し出されるどんよりとした空気。ここに入ることはほとんど無いが、それでも職場の中の一室なのだから何度か入る機会はある。今がそれだ。
 養鶏場で倒れていたプーチンは、発見者であるロウドフの手ずから医務室に運び込まれ、医務官ドクトレフスキーの処置を受けた。今はまだ眠っている。
 ただ貧血だとか事故だとかで倒れたならばカンシュコフがここに来る必要もなかったのだろうが、今回は事情が違った。プーチンは、何者かからの暴行を受け、目にも明らかな外傷を負った上で倒れていたのである。
 養鶏場での作業は、何人かの囚人たちが集まり一緒に行う。もちろん看守が監督に就くが、それがふと目を離した隙の出来事だった。床に倒れたプーチンには卵が叩きつけられ、その周囲をまるで心配するかのように鶏たちが囲んでいたそうである。

「全身に数箇所の打撲、左手中指と薬指に亀裂骨折。気絶していたのは頭部を強打されたためだけど、頭骨や脳へのダメージは無いみたいね」
「ドクトレフスキー、その……」
「ああ、レイプ痕はなし」
 あっけらかんと言い放たれた台詞に、しかしロウドフは重苦しいため息を吐いた。まったく、まったく最悪の事態であるが、それだけが救いだった。刑務所のこういった暴行事件にレイプはつき物である。
 最後の最後まで肺の中の空気を吐き出し切ると、ロウドフはくるりと回転椅子を回してカンシュコフに向き直った。
「すまん、何から何まで俺の責任だ。541に他の囚人がいい感情を抱いていないのを承知で卵回収の作業に回し、監督の看守も経験の薄い若い奴だった……。本当にすまない、カンシュコフ」
 『正直、俺に謝られても』そう思ったカンシュコフだったが口には出さず、とりあえず、ロウドフのため息と同じくらい重苦しく首を縦に振った。
「暴行としちゃ、軽いほうでしょ」
 重い空気を切り裂くかのように、ドクトレフスキーの軽薄な声が響いた。妙な具合に高く裏返ったこの男の声は、人の神経を逆撫でする。
「お言葉を返すようだが、ドクター、暴行に軽いも重いも――」
「前菜のつもりかもよ?」
 はい? とロウドフの表情が固まった。ドクトレフスキーは続ける。
「僕は何度も暴行された囚人を診てきたけどね、大抵は再起不能になるまでボコボコにされてるわけ。肉体的にも、精神的にも。この子は結構軽いほうだね。でも、さっきまでのお話を聞くかぎり他の囚人クンたちはこの子にかなりブチブチきてるみたいだし、これで終わるとは思えないのさ。だからこれは、」
「前菜」
 その通り、とドクトレフスキーは脱脂綿を挟んだピンセットを振った。この物騒な推理に、ロウドフは深刻そうに瞼を伏せ口を真一文字に結び考え込む。
「オードブルはなんだろうね? もっと太い骨か、目を潰されたり、耳をそぎ落とされた囚人も見たことあるなあ……あ、このこの場合は、"お尻"かな?」
 どう考えても口調、表情、台詞どれも軽薄なこの医者を、カンシュコフは不快な気分を隠すことなく睨んだ。カンシュコフが医務室嫌いな理由の筆頭は、この最低な医者なのだ。



 翌日の会議では、更に悪いことが起こった。
 2人用監房区の看守長である1級看守のレオは、いつも通りの青白い顔と陰鬱な口調でこう発表した。
「我が区画の労働担当を変更する。前担当はロウドフ、変更後の担当はH・H。ロウドフはH・Hの前任である食事担当へ回ってもらう」
 養鶏場の事件を自らの失態と信じて疑わないロウドフは、数秒の沈黙と真面目くさった敬礼でその辞令を受けたが、カンシュコフはH・Hとあの養鶏場で間抜けにも"目を離した"看守が意味ありげに視線を交わすのを見逃さなかった。
 H・H――そういえば、プーチンの入所時から奴の尻を狙っていたのはこの変態だ。
 その時は、541番の純朴な瞳と口調でその一物を『ポークビッツ』と称され、すごすごと逃げ帰ったわけだが――この数ヶ月の間、あの変態は屈辱をどす黒い復讐心に代え愚かな謀略を巡らせていたのではあるまいか。更にカンシュコフは、H・Hが一部の囚人たちのグループに取り入り互恵関係を結んでいるとの噂を聞いたこともあった。
 しかし、たとえそれを知っていたとして、今立ち上がりレオに意義を唱えH・Hの不正を暴くことで何が生まれるだろうか? カンシュコフが首を切られ、その立場が看守から囚人へと変わるだけだ。まったく、それだけに過ぎない。
 カンシュコフは、ただ沈黙した。妙な具合に湧き上がってくる、覚えのない感情に戸惑いながら。
 レオの辞令は、全員の沈黙を以って満場一致という結果と相成った。



 カンシュコフの悪い予想は、何も外れてはいなかった。H・Hは確かにある囚人たちのグループに取り入っていた。ウラジオストクのマフィアたちで構成されるグループである。というのも、彼の甥がこのグループに所属しているためであった。
 マフィアン・グループの構成員の多くは雑居房区の囚人だが、数名の構成員が2人用監房区にも存在する。H・Hは、甥のコネを使って彼らと互恵関係を結んだのだった。数ヶ月前H・Hが2級看守へと昇進したのも、その恩恵を利用したためだ。やらせの喧嘩を収めたり、囚人から持ち込み禁止品を押収したり――全ては囚人内にスパイを抱えているからこその功績である。
 まったく、H・Hはうまくやった。そして、これからも。

「うまくやったな、H・H。まァ、うちからもエゴールが懲罰房送りになったが、問題無いだろう。奴もどうせ死刑囚だ、これ以上悪くなりゃしねえ」
 囚人番号498番のヴァシリーは、鉄格子越しで引きつったような笑い声を上げた。この男がロシアン・マフィア・グループの2人用監房区リーダーであり、養鶏所での事件での主犯であった。
 ヴァシリーの囚人服の下には、いくつも目を持つ巨大な蛇の刺青が刻まれている。その目の数はこの男が屠った同業者の数とも言われているが、真相は知れない。ただ、その蛇と同じようなヴァシリーの瞳は、それを真実たらしめる色をしている。その目の色こそが、彼が2人用監房区のリーダーたる証だった。
 鉄の扉一枚を挟んで、その向こうではH・Hが脂ぎった顔を真っ赤にして目をぎょろぎょろさせている。
「お、おい、もっと声を落とせ。だ、誰に聞かれているかも、わからないんだ」
 H・Hの突っかかったようなどもり口調を聞いて、ヴァシリーは更に笑う。
「おいおい、今更びびってんじゃないだろうな? これでもう、俺たちは一蓮托生の身なんだぜ」
「そ、そうだな……」
「しかし、今回のはただの"イタズラ"に過ぎない。次はあの緑色君を思う存分いたぶっていいんだろ?」
「ああ……」
 541番。その名を聞いた途端、H・Hは目のぎょろぎょろを止め、真っ黄色の歯を見せてニヤリと笑った。
「お、思う存分、だ」
「まったく、あんたはど変態だよ。H・H」
 蛇の目が、獲物を見つけたときと同じように細められた。




















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