罪と罰










 H・Hは息を吐き、"それ"を抜き去った。粘りきった汗がだらりと赤らんだ頬を伝う。それが、下に組み敷いた小柄な囚人の上へと落ちた。
 パチパチと軽薄な拍手が響く。扉の前で手を叩いているのは、微笑を浮かべたヴァシリーだ。その表情はまるでまっさらな顔にナイフで切れ目を入れたかのようであり、その身体に刻まれた刺青の蛇を連想させる。限りなく無表情に近く、しかしそこからは絡みつくような悪意が伺える。
 ヴァシリーが細い目の中の瞳をちらりと動かしたのを合図に、H・Hに組み敷かれていた囚人は娼婦めいた笑みを浮かべながらするりと巨体の下から抜け出した。その小柄な裸体にも、ロシアン・マフィアの構成員であることを示す刺青が刻まれている。
「"貢物"の味はどうだったかな? H・H」
「ああ……い、いや……」
「そうか、結構」
 ヒュ、ヒュ、と息を漏らすようにヴァシリーは細い笑い声を上げた。
「なあ、H・H」
 地面から纏わりつき昇ってくるかのような声で、ヴァシリーが囁く。
「人間ってのは、何かしら生きる糧ってのを持ってるもんだ、今のあんたのように。こんなところに閉じ込められた俺たちだってそれは同じさ。たった一つ、たった一つだけでもそういうものを持ってる。例えばそれは昼食のパンであり、週に一本の煙草であり、こいつのように"これ"であったりする」
 そう言いながら、ヴァシリーは全裸の囚人にビニールの小袋を放った。白い粉の入った袋だ。
「俺の場合は――いや、言う必要な無いな? あんたはわかってるはずだ。俺の"楽しみ"も、それを奪われたらどうするつもりかも……」
 わ、わかってる、と乱れた息のままH・Hが答える。
「ならいいんだ」
 微笑を一段濃くすると、ヴァシリーは身を翻し、音も無くその場を去っていった。

 ヴァシリーの"楽しみ"とは何か?
 それは、予想通りと言えば予想通りでもあり、予想を超えたと言えばその通りでもある。
 ヴァシリーは、他の囚人をいたぶるのを楽しみにしているのだった。それも、常人の想像を超えるくらいに徹底的に。そう、まるで蛇が子鼠を追い詰め締め付け飲み込み、ゆっくりと消化していくのと同じく。
 1年前何人もの囚人たちにレイプされ耳をそぎ落とされ精神を病んだイポンスキーの囚人も、数ヶ月前に両目を潰され右手の指全てを削がれ自殺したナチの囚人も。全てはヴァシリーの仕業だった。
 そして、次の獲物は――
「541番、か……」



 数ヶ月前と同じ風景のはずなのだが、妙に殺風景に見えてならない。
 プーチンが医務室に送られ、キレネンコは長いことそうしてきたように、再び2人用の監房に1人でふんぞり返ることとなった。
「おら、メシだぞ04番」
 ガンガンと鉄格子を叩くのはカンシュコフが勝手に定めた食事の時間の合図だ。わかりやすいだけでなく、囚人に不快感を与えるという効果を持つ。しかし、キレネンコはその耳障りな音に耳をぴくりと動かすこともせず、ただシューズ雑誌のページを一枚捲った。
「メシだっつってんだろ、コラ。懲罰房送りにされてえのか! おい、聞こえてんのかクソ野郎」
 嫌がらせのごとく、というか嫌がらせそのままの意味でカンシュコフが生魚の皿を目の前に突き出しても、キレネンコは眉ひとつ動かさない。鼻は、ほんの少しひくりと動かしたが。
「食わないっつうならそれでもいいがな。その代わり、1週間はメシ抜きだ。ゴキブリでも食ってるんだな、オイ」
 ぐい、と更に皿を突き出した瞬間だった。
「……あ」
 『主よ、人の望みよ喜びよ』が流れてくるのではないかと思うほどのスローモーションで、カンシュコフが自分が持った皿から魚が滑り落ち、04番の雑誌の上へとダイブしていくのを見た。
 そしてそれと同じくらいゆっくりと、しかし避けられない確実さで拳が飛んでくる。
 このとき、拳と顔面、紙一重のところで自分が呟いた言葉に、誰よりもカンシュコフが驚愕し動揺した。

「悪いな、541番」

 おい、これは何かの冗談か? 吹っ飛びながらカンシュコフは自身に問うた。
 ――罪悪感?



「悪い知らせと最悪の知らせ、どっちから聞きたい」
 医務室の静寂に重ねるかのように、カンシュコフの陰気な声が響いた。普段から辛気臭く喋るカンシュコフであるが、今日はそれが更に増して聞こえるのは気のせいではあるまい。顔面が酷く腫れているのが恐らく第一の理由だが、他には、今から話す内容にうんざりしているのか、あるいは消毒液の臭いにあてられたためかもわからないが。
 ベッドに仰向けに寝かされた541番、プーチンは、それに微笑を以って返した。何の含みも無い、まるでカンシュコフがちょっとした冗談を口にしているかのような表情だ。囚人服が酷く似合わない。
「……じゃあ、悪い知らせからにするか」
 コン、コン、とカンシュコフは無意識に警棒でベッドの枠を叩いていた。
「明日いっぱいでお前は退院。左手薬指のヒビはまだ治りきってないが、作業に支障はないそうだ。前と同じ監房に戻ることになる」
「よかった、最近やっとキレネンコさんと打ち解けてきたところだったから」
 いったい何を以って打ち解けたなんて言ってるんだと思えども、むっつりと顔を歪めたカンシュコフがそれを口に出すことはなかった。
「で、次は最悪の知らせだ」
 両眉がくっ付いてしまうのではないかと思うほど眉間に濃い皺を刻み、カンシュコフは憎憎しげに目を閉じた。それにしても、どうしてこのお気楽な囚人は、こうも暢気な顔をしていられるんだ?
「退院後、お前は再び養鶏所での作業に回される……」
 カンシュコフは確信していた。このまま目を開ければ、そこには絶望に顔面を蒼白へと変えた541番がいるのだろう、と。
 ――しかし。
 驚くべきことに、カンシュコフの予想は外れた。いや、カンシュコフに限らず、誰もがこの状況では彼と同じ予想をしたのだろうが――プーチンが返した反応を、いったい誰が予測できただろうか?
 プーチンは相変わらず微笑んでいた。そして、カンシュコフに屈辱に近い驚愕を抱かせたのは、その笑みがつい最近政府によって打ち壊された17世紀のマリア像に似ていたということだ。ぐうの音も出ないとはこのことか。カンシュコフの暴発気味のマシンガンにも似た口からは、いつもの罵詈雑言が消えうせてしまっている。
「じゃあ、今度は一生懸命やりますね」
 ここでようやくカンシュコフは気付いた。この、目の前のおちゃらけた囚人が、見た目どおりのただの暢気な馬鹿ではないことを。
(いったい、何を考えている?)
 しかし、裏があるとは言えそれが黒色めいたもののようには思えない。そう、例えるならば、昔祖母から聞いた聖人の話だ。仲間の裏切りと自分の死という運命を知りながら、なお微笑んだのだったか。
 別にカンシュコフは心を読めるわけではないし、このような印象が当たっている保障などかけらもない。だが、たった今カンシュコフ自身が心臓を掴まれたような気分になっていることが何よりの証拠だ、カンシュコフがプーチンの背後に感じる光に目を焼かれていることの。
「……つーことだから、せいぜい今晩はゆっくり休むんだな。ゆっくり眠れる最後の夜になるかもしれねえぞ」
 自動的に言葉が悪態に変わるカンシュコフだが、それを後ろめたいと思ったのは今このときが始めてだった。
 しかし、それはおくびにも出さずカンシュコフはそのまま椅子から立ち上がり、扉へと向かう。

「そういえば、その顔面、どうしたんですか?」
 去り際、思い出したかのようにプーチンの声がカンシュコフを追いかけてきた。
 お前と同質のクソッタレにやられたんだよ、ああ、いつも通りにな!
 ――常ならば、カンシュコフはそう叫んでいただろう。実際、プーチンは物覚えが悪いのか過去何度もこういうやり取りがあり、その度にカンシュコフはそう叫んできた。
「……罪と罰、ってとこか」
 そう、あの憎むべき宿敵04番の拳を受けたその瞬間、この541番プーチンの名を唱えたのは、あの鉄拳がカンシュコフにとっての"罰"だからだ。何もなさない自分自身に対しての。
 さすがに違和感を感じたようで、プーチンは、ん? と小首を傾げる。
 カンシュコフは、初めて今までと違う返事をした。何しろ、今は04番にボコボコにされたとき以上に気分が悪く、そして信じられないことに――カンシュコフは、罪悪感を感じている。この間抜けな囚人に。



















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汚らしい変態を書くのは、とても楽しいです。



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