第一話:天使と悪魔 01










 ヨコハマ市立第十三工業高等学校通称ヨコサン、南校舎4階西側男子トイレ、3番目。深夜決してこの場に近づくべからず。この掟を破りし者、
「あークソ、出ねェー」
 ――その命、無きものと心得よ。

「畜生、カレー食いすぎたのがマズかったんかな。食い放題だもんなァ、食うよなァ。あのあと牛乳しこたま飲んだし、リセットされたと思ってたが甘かったな」
 深夜の0時、4階西側3番目のトイレ(大便用)に腰掛け、不毛なボヤキを漏らしながらラッキーストライクをふかしている影ひとつ。この男こそヨコサン闇の掟第一条の正体、その名をミカエル・キレネンコと言う。
 天使様の名を冠したその名に似合わず、その容姿はと言えば、言葉で表すならば『粗暴で破廉恥』。
 キャンパスのごとく真っ白に脱色され短く刈り込まれた髪はその後警戒色的な赤色に彩色されて完成。セットは0秒のお手軽ヘア、ちなみにキューティクルの源はレモン石鹸とアルボースと気合いだ。
 ロシア人の父とフランス人の母を持つハーフ。その真っ白な肌は、毎日の粗野な食事とヘビースモークにも関わらずニキビひとつシミひとつ無し。頭のてっぺんから足の爪の先まで完璧に造形された骨格と、同じく絶対美の法則に基づいたと思しき筋肉。その表情は凶悪だが、確実に整ってはいる。
 ジャラッジャラに付けられたアクセサリーの数々は生徒指導主事の血管を破裂させるのではないかと思えるほどだが、残念ながらそういう事態は彼が入学早々上級生の約半分を病院送りにして以来起こっていないようである。
「あー、これじゃ欽ちゃんに怒られるぜ。せめて歯磨きだけはしっかりしよう」
 結局ぽとりとも鳴らなかった便器に吸殻を放り込むと、ミカエル・キレネンコは頭を掻きながら3番目の便所の扉を開けた。
 暗闇。静寂。当たり前である、深夜の学校なのだから。
 何故彼が深夜、学校のトイレに篭もって踏ん張っていたのかと言えば、答えは簡単である。ミカエル・キレネンコはここに住んでいるのだ。正確には、屋上の用具倉庫に。

 カツ、カツ……“自室”から歯ブラシとタオルを持って、ミカエルは全く人気の無い南側校舎4階の廊下を闊歩する。洗髪と洗顔、歯磨きのためである。ちなみに彼は、小さいころ母親に教えられた「良い子は歯磨きしてクソして寝ないとドリフの欽ちゃんにタライを落とされて死ぬのよ」との言葉を信じていた。
 カツ、カツ、カツ……コッ……カツ、カツ……
「ん?」
 ふいに、自分以外の足音がしてミカエルは振り返った。
 しかし、そこには窓から入り込んだ月光ガ作る長い影が伸びているばかりである。
「おばけか?」
 疑問には思ったが、ミカエルがその謎の足音についてそれ以上の詮索をすることはなかった。おばけだろうがケテケテだろうがメリーさんだろうが、自分に牙を剥いたそのときにはすぐさま相手を再起不能にする自信があった。また、自信のみでなく、実力も彼には備わっていた。

 何故ミカエル・キレネンコが学校に住んでいるのかについては、――何から話せばいいだろうか?
 完璧に話そうとすれば、このヨコハマに戦後大量の不正入国者が乗り込んできたこと、その中に一人の孤独なフランス人娼婦が含まれていたこと、その中に祖国を出てこの日本で一旗挙げようとした血気盛んなロシアンマフィアが含まれていたこと――なんて、とんでもなく遠いところから話さなければならない。
 至極おざなりに、かつ簡潔に話そうとすれば、それは金が無いからだ。家賃石鹸トイレットペーパー水、全てタダで済ませられる学校は彼にとってはいろいろと都合が良かった。それに、ミカエルがひと睨みすれば、大抵の人間は彼に文句を唱えることすらなかったのだ。
 今日も、ミカエルは学校の備品のレモン石鹸で体と髪と顔を洗い、アルボースでなんとなく髪に潤いを与えたような気分になった後、タオルを頭から被った。使い放題の水を思う存分使って満足いくまで歯磨きをすると、さっぱりした顔をして「やっぱ欽ちゃんは正しいな」、そう言って自室への帰路に着く。

 屋上へと至る、窓から入る一筋の月光のみが線を引く廊下の突き当たりへと来たときだった。
 ふと、小さな窓の下を影が横切った。
「誰だァ?」
 闇の中で何者かの気配を感じた途端、ミカエルの目がぎらりと輝く。野生よりも野蛮なその瞳は、月の下においてますます不穏だ。
「ボ、ボス、俺、俺っすよ」
「アー、鴨川か」
 一瞬びくりと身を震わせながら出てきたのは、恐らく年の頃はミカエルと同じくらいかと思われる青年だった。ミカエルほどではないが、ぱっと見ると目立つ容姿をしている。よく見てみれば身に着けているのはヨコサンの制服だが、どうやら生徒手帳の服装規定の欄は一度も読んだことが無いらしい。身長は、長身のキレネンコと横に並んでいるせいで異様なほど低く見えるが、実際はまあ平均を少々下回るくらいだろう。ひょろり、というほどではないが、細かい感じで華奢だ。顔は……なんとなく、栄養失調のタヌキ、という感じ。
「やー俺、ブラウニー作ったんすよォ。で、ボスに食ってもらおうと思って」
「フーン。何味だ」
「無論、ニンジンっす!」
「わかった」
 簡潔な返事だが、即ちイエスである。それを聞くと、鴨川は男にしては少々異様な感じのはしゃいだ歩調でミカエルの後ろに立って屋上への階段を昇るのだった。屋上がミカエルの居住スペースだということは、このヨコサンの人間はほとんどが知っているのだ。
 ギィ、とかなり軋むドアにミカエルが手を掛ける。小さな曇った窓からは、やはりおぼろげに月の光が差している。
「今日はっすねえ、摩り下ろしたニンジンに加えて、細かく切ったやつを入れたんす!」
 キャッキャとして、やはりそちらの気がある風な仕草で鴨川が小じゃれた紙袋を突き出す――と、ミカエルはそれを勢い良く奪い取り、
「わー食ってくれるんす、えええええええ!!!」
 それを屋上の暗闇に向かって投げつけた。
「……やっぱ、ネズミがいるなァ」
 緩やかな秋の風が吹き込んでくると、横で崩れ落ちる鴨川を他所に、ミカエルは鼻を鳴らしそう呟いた。
 その不穏な発言とは裏腹に、彼の顔にはにんまりとした笑みが浮かぶ。顔が矢鱈整っているものだから、その破廉恥な微笑みですら大天使のそれのごとく見えるのが、この男の嫌らしいところだ。
「不逞の輩っすか! ボスの手を煩わせることないっす、俺が……」
「いや」
 正直、ここに“ネズミ”が入り込むことは、そう珍しいことではなかったのである。良きにつけ悪きにつけ、ほぼ悪いところだが、ミカエル・キレネンコは目立つ存在だ。彼が背負うのはその名の通りの聖者の光ではなく、悪徳の美である。そして、その暗闇に向かって“ネズミ”たちは突進する。
 しかし、ミカエルは、いや彼の背負う悪徳は、その“ネズミ”を喰う怪物である。
 彼は、自身に群がるネズミたちを捕食する。

 ――さて、ドーブルィ・ヴェーチィエル、ネズミども。今夜も暗闇に紛れ、俺に喰われに来たのか? 安心しなよ、骨の髄まで食べつくしてやるからな!

 ちなみに、ミカエルを昔から知るある中国人は彼を称し、「普段は顔がこわいだけだけど、キレると全部こわい」という感じのことを言葉少なに語ったことがあるらしい。
 その言葉通りに、双眸をらんらんと悪魔絵の主人公のごとく残酷に輝かせたミカエルは、その不安定な美しさを湛えた全身を不気味に躍動させ、屋上にひっそりと建てられた彼のホーム・スウィート・ホームの扉を破り抜かんかの勢いで跳ね開けた。
 ミカエルの人格に巣食う最大の、かつ核的な欠点を挙げるとするならば、やはり彼の兄が語ったようなその狂気的一面であることは間違いない。天使は時に残虐である。そして、悪魔は更に。
「……ア?」
 しかし、ミカエルは部屋の中を見た途端、ぽろりと悪魔の尾を切り落としてしまったかのごとく、その目から狂気の色を消し去った。
 そこにあったのは、彼が期待したような、ドブ臭い、獣の本性のみで息をしているかのごとき、油で湿った毛並みの、目をらんらんとぎらつかせた獲物の姿ではなかった。
「ボス、どうしたんすかぁ?」
「なんだ、仔ウサギかよ」
「ぴっ」
「ア゛アァ!? なんだてめェ!」
「きゃあああ」









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