第一話:天使と悪魔 02










 月の光に逆光して立った家主の姿を見た瞬間泣き始めたその“仔ウサギ”を、家主ミカエル・キレネンコはやや手持ち無沙汰な気持ちで見つめた。歯向かってきた奴を泣かせたことは幾度となくあるが、何もしないうちから泣かれてしまっては、流石に頭のおかしい彼と言えど困惑は禁じえなかったらしい。
「オイ、なんだよクソガキ。まさかそのちみっこいナリでボスに挑んできたってわけねェよなァァ!?」
 湿った頭を拭きながら、ミカエルは鴨川がその小さなウサギに詰め寄る様をなんとなく、他人事のように傍観していた。
 ――いやしかし、小さいというのは、初対面のインパクトゆえの錯覚だったらしい。確かに小柄ではあるが、見かけから判ずるに、とりあえず小学生ではないことは確かである。しかも、よくよく見てみればその服装は、ヨコサンブランド、伝統的デザインを誇るイモジャージではないか。
「嘘だろ、お前高校生かァ? 一瞬小学生かと思ったわァ」
 ヒャヒャヒャという軽薄な笑い声とともに漏らされた鴨川のこの場には相応しくない暴言も、ひいひい泣いているこの……青年、には聞こえていないらしい。
 しかし、それにしても一体何をそんなに泣いているのかと、普段他人のことなどお構いなしな行動に定評があるミカエルも、さすがに気になり始めた。
「つーかなにボスんちにフホーシンニューしてんの? つーか10秒以内に言わねえと屋上から地面に叩き落す」
 きゃあ、と小さい悲鳴が小動物から漏れた。仮にも男子から出て良い悲鳴じゃねえな、と無言のまま内心でミカエルは唾を吐きながら呟いたが、それでも実際唾を吐いたり殴りかからなかっただけ今日の彼は理性的だ。
「……お、おばけかと思ってぇ」
「ハァ?」
「だって学校の中、ぴたぴたって……真っ白だし、」
 ぴたぴたというのはミカエルにはよくわからない形容だったが、真っ白というのは恐らく肌の色のことを言っているのだろう。なるほど、ミカエルは気付いていないが、月光のみが光る校舎の中で、彼の肌色はぼんやりと青白く浮いて見えるのだった。
「あーキミキミ、馬鹿でしょ? ショボいし」
「そ、そんな、ひどい」
「高校生でそれは無いわァ。ぜってェ童貞だろ」
 死んだほうがいいよ、と、さっきまでオカマのように身体をくねらせていた男から嘲り100%のそんな台詞が飛び出すと、今まで泣きじゃくっていた童貞男の顔がぐにゃりと歪んだ。
「キレネンコ君の検便の提出がまだだから校舎の中ずっと探してたのにッ!」
「……は? 俺?」
 思わず、今まで沈黙を保っていたミカエルの口から疑問の声が漏れた。
「兄弟揃ってまだなのに帰っちゃうからッ。おれ、今日ヨコハマ中で君たちのこと探してたのにっ!」
 酷い酷い酷い、きみたちは悪魔だ! わあん、とまた盛大に泣き出す。
「アー……え? 俺と兄貴が?」
「検便出してください」
「……」
「出してくださいッ!」
「……今、出せますか、ボス」
「……便秘だから出ねぇー」

*

 数分後。
 その後もさめざめと、運河でも造りたいのかという勢いで泣き続けていたその妙な青年だったが、いい加減扱いに困ったミカエルが視線で鴨川に指示を送り、それによって鴨川から繰り出されたの力技(「目玉抉り出すぞコラァ」)によって、ぴ、とまた妙な声を出して、電源が切れたかのように泣き止んだ。
「驚かして悪かったって。いいから飲め」
 ミカエルが、恐らく今まで目にしたことの無いようなタイプに圧されたのだろう、またも彼にしては珍しすぎる気を利かせ、その青年の前に小型冷蔵庫から出したジュース缶を差し出した。プルタブ開けれない、と小さい声が聞こえたら、なんと手ずから開けてやるというサービスぶりだ。
「てめぇ、ボスに開けてもらうなんて……」
「……マズぅ」
「てめぇぇぇ!」
 若干気持ち悪い方向にいきり立つ鴨川を制し、出来得る限り穏やかな口調を心がけながらミカエルは尋ねた。
「……その、お前、何者? なんで俺と兄貴を……」
「えっ」
「えっ」
「……わからないですか?」
「わからないけど」
 涙すら忘れたかのように、ぽかんと目も口も全開にしてその小さなウサギはまじまじとミカエルの顔を見つめた。
「てめぇのことなんかボスが知るはずねえだろ! バーカ!」
 ヒャッヒャッヒャと心底愉快そうな笑い声を上げ、鴨川が中指を立てた。
「……」
「同じクラスのプーチン、なんだ、けど……」

 じぃん、と、秋の虫が鳴く音だけが微かに響いた。

「死んでやるぅぅぅ!!!」
「てめぇぇ、ボスのお宅を汚ェ血で汚すなんて俺が許すかァァ!」
 物凄い勢いで飛び出したチビと鴨川の絶叫を遠くに聞きながら、ただただミカエルは彼に珍しく混乱していた。そもそも、混乱するほど物事を考えたことがないのだから、今現在の状況は置いておくとして、これは彼にとって大いなる進歩と言っても良い快挙だろう。
(どうして……)
 表の馬鹿騒ぎが耳に入っていないらしく、ミカエルはぼんやりと考え込んだ。
(あ、)
 ちらり、ゴミ箱に雑に放り込まれた四角い袋が見えた。そう言えば、何か小さな奴が直接渡しに来た記憶が、無いでもない(ミカエルは悪気があるのでは決してなくて、ただ単に覚えていないだけなのだ)。
 そうだ。プーチンからしてみれば一日中探し回ってようやく見つけた兄弟の片割れから目的のモノを調達できないわ、そもそも自分の顔を覚えられてすらいないわで、確かに自暴自棄になるのも道理かもしれない。
 ただし、更にそれに拍車をかけたのがミカエル自身がプーチンに与えた“缶ジュース”ならぬ“缶ビール”によるものとは、恐らく彼は一生気付くことはないのかもしれない。
「……」









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